寒溪神社(2026年3月28日撮影)

境内の散歩経路。本殿裏の高台から遊歩道(新光聯絡歩道)を下りた。

新光集落の北に遊歩道の高台側入口がある。この道は後年になって開鑿されたと思われる。

ステンレス製の説明看板。図も添えられていて力が入っている。翻訳はページ下部を参照。

奥が本殿跡。灯籠と左手前の「銃獵ヲ廢ス」碑はオリジナル。

碑には「銃獵ヲ廢ス」「カンケイ方面五社」「昭和八年十一月」と刻まれている。解説はページ下部を参照。

灯籠の文字は埋められている。「銃獵ヲ廢ス」碑の文字も一度は埋められたと思われる。

階段上に鳥居と拝殿があった。階段下をまっすぐ下りると寒溪國小(小学校)の敷地。

参道には手水鉢も残っている。右書きで「淸洗」だろうか。

遊歩道の出口。拝殿より下は参道と呼ぶべきだろうが、遊歩道と一体化していて面影はない。

寒溪國小の前身は1914年に設置された寒溪蕃童教育所。境内は子供たちの遊び場になっていただろう。

寒溪バス停前に設置された案内標識。何もない村だが、宜蘭クレオールと呼ばれる言語の話者が多く、日本人もよく訪れる。なお、寒溪神社は正式名称ではなく、日本統治時代は「社祠類」に分類されていた。
説明看板の日本語訳
寒溪神社・創建と変遷の歴史
日本統治時代、日本人は寒溪蕃童教育所(現在の寒溪國小)の裏手にある桑畑の高台に神社を建設しました。1932(昭和7)年に寒溪神社の建設に着手し、1933(昭和8)年に鎮座祭が執り行われました。寒溪神社の本殿は木造の
一間社流造が採用され、湾曲した屋根と、前方へ伸ばされた2本の
向拝柱が特徴でした。中央軸線の下層台座には切妻造の木造東屋風の拝殿が置かれ、拝殿の前方には鳥居が設置されていました。周囲には4座の石灯籠、「銃獵ヲ廢ス」碑、誓文碑、および2門の七珊山砲(註:明治時代初期に日本陸軍が制式採用した口径75mmの山砲)が配置され、参道には手水舎が設けられていました。戦後、神社内苑の本殿、拝殿、鳥居などの建築物は消失し、現在は本殿の基壇(土台)、亀腹、向拝柱の礎石、ならびに拝殿の台座、石灯籠、「銃獵ヲ廢ス」碑、誓文碑、七珊山砲の台座、手水鉢のみが残されています。2013(民国102)年7月30日、寒溪神社遺跡は宜蘭県指定古蹟(県指定史跡)に指定されました。
「銃獵ヲ廢ス」碑について
1910年代、台湾総督府は理蕃事業(原住民統治施策)の一環として、南澳の山地に住む南澳群泰雅族を武力によって平定し、5つの集落(寒溪社、四方林社、小南社、大元社、古魯社)を麓の番社坑溪周辺へ集団移住させた。
平定に伴い銃器などの武器が警察に没収されたが、狩猟採取民族である泰雅族にとって銃は生活必需品であり、また部族男子の誇りでもあることから、狩猟期間に限って一時的に貸し出すなどの対応をとった。しかし1930年の霧社事件を機にそうした例外措置はなくなり、徹底的な武装解除と回収が進められた。
「銃獵ヲ廢ス」碑は、この地の武装解除を記念して1933年に建てられた。碑に刻まれた「カンケイ五社」とは、前述の寒溪社、四方林社、小南社、大元社、古魯社を差し、これらの集落で暮らす泰雅族に対して、銃器による狩猟を禁じ、将来に渡り反乱を起こさないことを誓文として提出させた。
寒溪神社の説明看板に書かれている「寒溪蕃童教育所の裏手にある桑畑」とは、泰雅族の狩猟採取生活から農林業への転換を図るに際し、養蚕を奨励したことから、その飼料となる桑を栽培していたものである。
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