明治の開国以降、我が国の主要なエネルギー資源は石炭であり、とりわけ終戦後においては国土復興を急ぐため、さらなる増産と炭鉱開発が推進された。しかしちょうどそのころ、中東やアフリカで大規模な油田が相次いで発見され、生産コストが低く扱いやすい石油へのエネルギー転換が急速に進むことになった。石炭ありきで始まった戦後の経済復興政策が、石油への転換を決めるまで、わずか10年ほど。夕張の繁栄もそれと時を同じくしていて、人口が10万人を超えていたのは、1951~1964年までの14年間にすぎない。俺の祖父は三菱大夕張炭鉱の炭鉱夫であり、一人っ子の父が夕張で青春時代を過ごしたのも、その短い最盛期まっただ中のことだった。危険と隣り合わせの炭鉱労働は地域に強い連帯を生んだが、エネルギー転換が進むとともに急速に衰退していく。鉱山が一つまた一つと閉山になり、炭住と呼ばれる木造長屋が消え、鉄道が廃止され、ついにはダム湖に沈んで街ごと消滅してしまう。それらが非常に短い期間に起きたことで、関わった人々の脳裏に強い郷愁となって残っているのが夕張という街だ。
若き日の両親が出会った街であり、俺にとっても懐かしい風景を目に焼き付けておくため、父の遺影を携えて夕張を訪れたのは9月28日、北海道旅行2日目の夜だった。函館での散歩を終えたあと、午後の特急で南千歳へ移動し、レンタカーを運転して、ホテルに着いたのは19時前。すべての用向きは翌29日に済ませるつもりだったが、あいにく天気が芳しくなく、レストランで朝食を取っているうちに、雨雲の接近を知らせるiPhoneのアラームがぴろんと鳴った。
雨が降って困る用事は猫関係のみ。慌てて車を走らせ、駅から離れた繁華街を歩き始めると、坂の下から黒白が現れた。
初っ端から人懐っこい子。高台の路地を行ったり来たりして遊んだ。紙幅が限られているので動画もどうぞ。
雨は徐々に強くなってくる。人通りのまったくない路地はかつての歓楽街だが、長い間放置され、朽ちかけた建物が目立つ。
近寄ってみると珍しい毛色。O遺伝子由来のレッドとは明らかに違う色だ。
もしかして君の毛色はライラックかフォーンだね? シナモンはもっと紅茶みたいな濃い色だもんね。夕張でこの毛色に会えるとは思わなかったよー。
昔はクリーム色をフォーンと見間違えたことが何度もあったが、これはきっとホンモノ。黒猫の遺伝子型のうち、D遺伝子座がddで灰色となり、さらに黒の色調を司るB遺伝子座がbbかbbl(ライラック)またはblbl(フォーン)に変異したもの。つまりこんな毛色でありながら、茶トラの仲間ではなく黒猫の仲間だということ。野外で目にすることは稀で、俺自身も6年あまりにわたる猫散歩で初めて見た。
ここの猫たちは目つきが友好的な気がする。優しい人に面倒を見てもらっているのだろうな。
夕張と一括りに言ってもそれなりに広く、父の育った鹿島地区までは25kmほど離れている。すでにシューパロダムが竣工し、立ち入り禁止区域となった鹿島地区にダム湖が迫っていることは伝え聞いているが、実際の水位は行ってみないと分からない。土砂降りの雨の中、新しく開通した付け替え道路を通り、更地となった鹿島小学校跡に着いたのは10時すぎ。その高台を下りると三菱石炭鉱業大夕張鉄道の大夕張炭山駅跡があり、閉鎖された旧道の先には、かつて炭住街として賑わった父の故郷が、半ば原野となった姿で広がっていた。できれば家のあった鹿島代々木町の辺りまで行きたかったが、ヒグマに遭遇しては困るので断念した。
眺める以外にこれといってすることのない鹿島地区を離れ、南部と呼ばれる集落に車を止めて休憩しているうちに、雨が弱くなってきた。これ幸いと周囲を歩き回ってみたが、人の気配も猫の気配も感じられない。その後も夕南町、遠幌、清水沢と、いちいち車を止めて猫を探したがどこも空振りで、朝の散歩地である夕張本町まで戻ったころには、とっくに正午を回っていた。
雨が上がったせいか、朝とは違ったメンバーが出てきているね。
三兄妹と思しき猫たちと連れ立って、高台の路地にやって来た(動画はこちら)。
窪みに溜まった雨水を飲む三兄妹。ここの猫たちの中で冬を越せるのはどれだけいるだろう。もし誰かが少しでも寒さに有利な形質を持っていたら、この子たちの末裔は遠い将来、エゾイエネコとでも呼ぶべき亜種に分化を遂げているかも知れない。
両親ともこの世になく、育った街まで消滅した以上、二度と夕張を訪れることはない。歓楽街の猫たちと別れて再びハンドルを握り、千歳に着いたのは15時前。この日はとても不安定な天気で、運転している間も晴れたり曇ったり忙しかったが、最終的には日が差して終わりそうだった。
3日間の北海道旅行の大部分は猫を探して歩いたが、頭の中では色々なことを考えていた。再び会うことのない生き物に接することは、過去と訣別するための儀式だったような気がしている。