今日は一日中家に引きこもって過ごすつもりだったが、お昼ご飯の買い物だけは行かずに済ませられなかった。どんなに些細な外出でも基本的には黒煙邸の路地を通ることにしていて、今日もからし号に跨がったまま覗いてみたが、武蔵をはじめ少なくとも4匹いる猫の姿はなかった。今の家に住み始めてから3年あまりが経過し、その間に仮の名前をつけている猫だけでも三毛3号、はっちゃん、黒煙ちゃんという3匹の猫があの世に行った。恐らく死ぬまで暮らすことになるこの街で、あとどれだけの猫を見送ることになるだろう。
今日紹介するのは今月1日、和光勤務時代の通勤路で見かけた猫たちの後編(前編はこちら)。彼の地へ通勤していたのは2015年5月〜2016年2月の10ヶ月間で、当時お世話になった猫にも何匹か再会できた上、可愛らしい子猫にも会えて予想外の盛況となった。
散歩コースは二つに分かれていて、一つ目の起点である和光市をスタートしたのは6:37。子猫に足止めを食うなどしてすでに1時間が経過しており、日が高くなる前に次の区間へ向かうため、後ろ髪を引かれる思いで朝霞駅へと歩みを進めたのだった。
この区間最後に見かけたのはご飯待ちと思しき三毛。
目つきが期待に満ちている。あげたいのは山々だけど、いつもの人からもらった方がいいと思うんだ。
4.6km、1時間半あまりの散歩を終えて朝霞に到着したのは8:13。かつての帰路と同じように東武東上線の下り電車に乗り、隣の朝霞台で降りてJR武蔵野線に乗り換える。この駅は東武が朝霞台、JRが北朝霞と名称が異なっていて紛らわしいが、駅を設置したのはJR(当時の国鉄)が先で、交差する東武東上線は武蔵野線との乗り換えの便宜を図るため、武蔵野線開業から1年4ヶ月後に設置された。駅名として理に適っているのはJRの方で、読んで字の如く朝霞市中心部の北に存在するから北朝霞。対する東武鉄道は首都圏大手私鉄の中ではダサいイメージが強く、長年にわたりその払拭に苦心してきたからこその駅名だろう。これは俺の想像だが、これらの駅が開業した1970年代、すでに沿線の不動産開発に成功し、高級イメージが定着しつつあった東急田園都市線にあやかって、地名に「台」をつけた朝霞台という駅名にしたのではないだろうか。横浜市や川崎市の山中に「ナントカ台」とか「カントカ丘」といった名前をつけて、地域のブランド化に成功したのは東急が嚆矢だった(「金曜日の妻たちへ」というテレビドラマがそれを後押しした)。
朝霞台を高級に感じるかどうかはともかく、駅の南側には黒目川という川が流れており、その河岸段丘に駅舎が建っているのだから、名称として間違いではない。そこから武蔵野線に乗り換えて15分で新小平に到着し、散歩第二弾をスタートしたのは8:45だった。
向こうから巡回中と思しき黒がやって来た。
2015年の秋ごろ、この近くでモノクロな家族を見かけたことがあるけど、さすがにあの時の子ではないだろうなあ。
大丈夫そうなので物陰から出てみる。自宅の前に俺がいるから入れなかったみたい。
しかし、シャイな黒白は車の陰に隠れてしまった。キジトラはカメラ目線バッチリ。
これ以上近寄って塀の向こうに逃げられたら打つ手がないなーなどと思いつつ、一歩前に進んだらその通りになったでござる。
先を急いでいるのか、アパートの廊下で静止していたのは5秒ほど。呼び止めたらダッシュで走り去ってしまった。
こいつがこの日最後の猫。近寄って声をかけたら塀伝いに逃げてしまった。
時刻は10時を過ぎて、和光勤務時代の夜勤明けとほぼ同じ時間帯。このあと小川から西武拝島線に乗り、15分ほどで拝島へ。あのころは8:00〜20:00または20:00〜8:00という二交代勤務で、冬の朝の散歩はとりわけ苦労したなーと当時を懐かしく思い出した。拝島からはさらに青梅線〜南武線と乗り継いで、分倍河原の自宅へ戻ったのは正午近かった。