「去哪裡?」
「もりなが!」
枋寮で発車を待つバスの運転士に聞かれて元気に答えると、苦笑いしながら頷いて車内へ促してくれた。森永という地名を中国語読みするとsēnyǒngとなり日本語とはかけ離れているが、排湾語ではmulinagaと言うそうなので通じたのかも知れない。もちろんこれは日本語由来の外来語で、ほかにもdingki(電気)、inpic(鉛筆)、kiokai(教会)などなど、排湾語にはこうした単語がたくさん存在する。
國光客運が運行する1778路というこのバスはもともと高雄~台東(約170km)を南回りに結ぶ長距離路線で、「台湾鉄路千公里」で宮脇俊三が乗った金龍号や中興号といった特急バスがその発祥だ。その当時はまだ南迴線が開通する前だったので、台湾南部を移動するにはバスに頼るほかなく、現在よりも格段に利用者が多かったようだが、コロナの影響などで次第に運転区間が縮小し、現在は1日2往復が枋寮~大武の約62kmを結んでいる。この日の乗客は俺のほかに台湾人観光客が4人だけで、それらはみな途中の雙流という山の中のバス停で降りて行った。
途中で10分ほどの休憩を挟み、森永バス停には定刻の9:48に到着。すぐに目を引くのは集落の入口に設置された森永村のモニュメントだ。石柱の上部に乗っている大きな壺は排湾族の神器で、そこには彼らの崇拝する百歩蛇の模様が描かれている。猫旅初日で接した閩南文化とはまったく異なる景観が展開し、森の中からはタイワンザルと思しき動物の叫び声が聞こえてくる。
旅の計画では縦長に800mほどの森永集落を一回りしたあと、山道を抜けて安朔渓(という名の河川)を徒渉し、対岸の安朔集落を経由して海沿いの南興集落へと至る予定だった。寄り道しなければ8kmほどの道のりだが、猫を探しながらなので2倍近く歩くことになると思われ、これを3時間強で収めるのはそもそも無理っぽかったかも知れない。安朔渓は涸れていたので靴を脱ぐ必要はなかったが、草木が背の高さぐらいまで生い茂っていて思わぬ藪漕ぎを強いられた。中には凶悪な棘を持つものもあってなかなか先へ進めない上、ようやく対岸にたどり着いて土手を登ろうにも、洗掘で土壌がむき出しになっているので手がかりがない。150mほどの川幅を渡るのに40分以上かかり、体中が汗と土埃と出血とひっつき虫にまみれ、とても外国人旅行者には見えない風体で安朔にたどり着いたのだった。
それはそうと人気のない森永では何とか1匹の猫を発見。
不審者に驚く麦わらさん。お腹がおめでたっぽいので、なおさら警戒しているね。
民家の裏手に逃げたのを何とか捕捉してもう1枚。森永の従業員に飼われていた猫の末裔なんてこと、ないのだろうなあ。
冒頭に書いたような経緯により、安朔で次の猫に遭遇したのは森永から1時間半後。すでに時間は押しているが、30.6℃という気温の割に猫がいてくれるのはありがたい。この辺りでは台湾で絶滅したとされるウンピョウの目撃情報が相次いでいるそうで、イエネコのついでにそちらにも会えたら嬉しいんだけどな。
クラシックタビーという毛色もさることながら、この子は耳の形状が特徴的。
碁盤目状の集落を何周かしていると、最初は気づかなかった猫の姿が徐々に見えてくる。
逃げられることは多いが、猫自体はそれなりの数が生息しているようだ。
さすがに暑いと見えて日陰から出てこない。特徴的な耳の形からすると、さっきのクラシックタビーのお母さんかな。
行き会う人々はみな友好的で、「你好! こんにちは」と挨拶すると、笑顔で「散步?」と返してくれる。なるほど台湾華語では散歩のことをsànbùと言うのかと納得し、以降はどの街へ行ってもサンプーサンプーと連呼する日本人になった。
小学校の校庭で黒い猫影を発見。ちょっと遠くて分かりにくいかな。
巡回のあとを追って何とか追いついた。お騒がせして済みませんね。
安朔散歩の最後は集落のゲートをくぐって終了。ここもやはり壺と百歩蛇がモチーフになっている。
このあと進んでいく南興、大溪、金崙(金峰)、太麻里といった集落はどれも排湾族の村で、この翌日以降もさらに別の部族が暮らす場所を訪れることになっている。ここまで原住民集落に拘って旅するなら、日本統治時代を含む台湾の近代史にも触れておいた方がいいのではないかとかなり悩んだが、ブログの趣旨から逸脱することもあり、今のところ詳しいことは書かないでおくつもりだ。清朝から日本そして中国国民党へと統治の主体が変わるにつれて、台湾には失われたものも育まれたものも数多くあり、時代や立場によって万華鏡のように変わる歴史評価を文章で固定化することは極めて難しい(次回へ続く)。