明治政府が生糸を主要な輸出品として位置づけ、外貨取得の基幹産業として養蚕業の振興に注力したことは中学校の教科書に書かれているが、その陰の立役者となった猫の存在について、俺はこの趣味を始めるまで知らなかったし想像すらしていなかった。初めてそのことに気づいたのは、奥多摩猫集落に残る古民家に越屋根が備えられていたからで、北海道では見たことのないその建築について調べた結果、ようやくそこで蚕が育てられていたことを知った。家畜として品種改良され飛ぶことすらできない蚕はネズミに対してまったくの無力で、その守り神として抜擢されたのが猫だったのである。猫の存在がなければ高品質の生糸を安定的に生産することは難しかっただろうし、そうなれば富国強兵も簡単には叶わず、他の多くのアジア地域がそうであったように、我が国も欧米列強の支配に屈していたかも知れない(似たようなことはこちらの記事などでも言及している)。
果たした役割の大きさに比して、現代日本における猫たちの待遇については大いに不満を持っているところであるが、それはまた別の機会に書くとして、今回の記事はそうした猫と日本人の歴史に関する展示会を見学したというお話。宮城県の村田町歴史みらい館で催されている「いつもそばには猫がいた ——猫神信仰と猫供養——」という企画展は、蚕を守る猫たちが愛され神格化されていた歴史的事実を、全国から収集した石像、猫絵、木版、絵馬、猫瓦といった資料によって裏付けてくれるもので、開催を知った先月の時点で必ず行くと決めていた。かなり暑い思いをすることにはなったが、9月21日までという開催期間に涼しい日があるとも思えず、形ばかりとはいえ梅雨のうちなら多少はマシだろうと思い18日から2泊3日で出かけた次第。南東北まで行くならついでに会津の猫たちとの再会の約束を果たそうと思い立ち、初日は在宅勤務ののち会津若松市内に宿を取り、翌19日は5時前にスタートしていつもの猫駐車場へ向かった。早くしないと夏の福島県はどれだけ気温が上がるか分からない。
目の色は違ってもやっぱり母子は似ているねえ。お母さんの毛色がサイアミーズ遺伝子で薄まると子猫の毛色になるという、とても分かりやすい例。
あらら、子猫がもう1匹。こちらは白斑のないポインテッド・キジトラだね。
前足のしっかりした骨格からすると男の子かな。もう1匹に比べるとやや臆病。
最初の写真に写っていたもう1匹は長毛ポインテッド・キジトラ。いちばん臆病なのはこの子だったか。
同じ路地を少し進むと、今度はフルカラー(?)のキジトラに行き会った。季節柄か若い猫が多いね。
不穏な気配を察してもう1匹追加。お母さんか兄妹か、関係性はよく分からないけど毛色はキジ霜降り。
この一角に個性的な毛色が多いのは歓楽街だからかも知れない。こういう場所で働くお姉さん方がシャム猫やアビシニアンといった血統種を飼っていて、それらが外猫化して交雑したと考えられる事例はほかにもある。
路地の向こうを見つめている。まだ5時半だからご飯は当分来ないと思うけど……。
2月以来半年ぶりの猫拠点にたどり着いたのは5:40。見覚えのある2匹が家の前で所在なげにしていた。
元気だったかー。もう少し涼しい季節に来たかったけど、サラリーマンだからなかなかさー。
会津ってのも極端な土地だよなー。前回会った時は氷点下の寒さだったのに、明日なんか36℃になるっていうんだから、毛皮を着た君たちは一層大変だ。
この場所で最も古いお馴染さんはこちらのポイント三毛。2019年7月、妻とともに猫温泉へ赴いた帰り道、レンタカーを返すついでにその辺を散歩していて出会ったのだった(こちら)。その時にとても懐いてくれた2匹の三毛ちゃんにも会いたかったが、あいにくどちらも不在。1匹は去年2月、もう1匹は一昨年の2月を最後に見ていないので、それまでの出現率からするともうここにはいないのかも知れない。
古馴染はいないけど若手はいた。2月にも見た子だね。
手前の大白斑はとりわけ人懐っこい。去年1月に来た時、よく似た大白斑が若いサバトラを追いかけ回していたから、その後想いを遂げて授かった子なのかも知れない。大河ドラマみたいだな。
落ち着きがなく、常に動き回っているので写真撮影はムズカシイ。
ほんの一瞬止まったところをすかさず激写。このあといつもの猫駐車場も覗いてみたが、かつてのような賑わいが嘘のように閑散としていて、見かけた猫もわずか1匹に留まった。紙幅の関係上、その1匹は次回紹介することにして、今日のところはこれにておしまい。