台東から東海岸に沿ってさらに25kmほど南下すると太麻里へ至る。台湾鉄路の南迴線も、台9線と呼ばれる幹線道路も、台東から先は太武山脈を越える険阻な区間に入るが、その道程の最初に現れるのが太麻里の街だ。太麻里は日本語、台湾華語、台湾語、客家語のいずれでも「タイマリ」と読む。住民の多くが排湾族で占められ、独特の文化と美しい景色を持つことから、一度訪れてみたいと思っていた街の一つだった。
台湾猫旅の2日目(11月13日)、台東市内の猫探しを終えたのは13:43。前回の記事で紹介したように、道中人懐っこいのに巡り会って足止めを食ったため、食事を取る間もなくバスの発車時刻が迫っていた。台東市街から太麻里へは、台東駅に戻って南迴線の列車に乗るのではなく、台東轉運站から直接太麻里へ向かうバスを利用することにしていた。鼎東客運の8135系統というこの路線バスの発車時刻は13:50。つまりお昼ご飯は抜くほかなかった。
太麻里の市街地を少し過ぎ、降り立ったのは德其里というバス停。市街地で降りなかったのは、德其里バス停からほど近い正興という集落から散歩を開始するためだ。正興は排湾族の集落で、建物や構造物には彼らの崇める百歩蛇が巧みにデザインされている。俺は漢人の街よりも、こうした原住民の街の方に興味があった。人類拡散に伴い、中国大陸から渡ってきたとされる排湾族の村落に、果たしてどのような経緯で猫が住み着くようになったのか。分子遺伝学の発展とともに、人類の遺伝子系統と言語系統に相関のあることが分かってきているが、俺はそれらの相関に猫の毛色系統を加えることができるのではないかと疑っているのである。
バスを降りて最初に目にしたのは、ぱっつん頭。キジ白のように見えて実は三毛。
バス停から10分ほど歩くと、丘の斜面に小ぢんまりとした碁盤目状の集落が現れて、その一角には早速猫の姿が見えた。人々は友好的で、会釈すると你好と返してくれた。最初は台湾語でないことを意外に感じたが、考えてみたら台湾語は漢人が持ち込んだ閩南語が元になっているのだから、排湾族が話すことは考えにくい。
台湾の原住民は16~30部族あるいはそれ以上と言われていて、もともとそれぞれが異なる言語を話していたところ、日本統治時代に日本語が公用語になった時期があり、現在でも共通語として日本語が使われることがあるそうだ。だから俺が日本人と分かれば、你好ではなく「こんにちは」と返してくれた可能性もあるが、何となく気後れして、そこで日本語を口にすることはできなかった。猫探しなど彼らの持つ日本人像とはかけ離れた行動のような気がしたからだ。
道路脇の壁面に独特の意匠が見て取れる。左側のくねくねしたのは百歩蛇だろうか。
キジ白がカラーポイント化した毛色。日本のように戦後シャム猫がブームになったわけではないから、この猫の祖先はシャム国(タイ国)と何らかの関係を持つ可能性が高い。イエネコが人類とともに暮らすようになったのは、本当に9,500年前からなのだろうか。実際はもっとずっと前からなのではないだろうか。
猫民家と思しき家の敷地でひっついているのもいた。午後からは雲が多くなって、猫たちもあまり活動的ではないように見える。
台湾のほかの街と違って、車はもちろん、スクーターもほとんど通らない。何だかとてもまったりした気分。
坂の下の彼方にはフィリピン海。海岸からの直線距離は1.5kmほど。
その坂道をゆるゆると下りていると、民家の敷地の奥の方で猫が休んでいた。
さらに下って南迴線の線路をくぐると再び太麻里郷へ戻る。16:30発の枋寮行き普快車が出るまであと1時間。時間に余裕があるのでメインストリートの太麻里街で牛肉麺を食し、復活した体力でこの日最後となる猫探しを続けた。続く。